アフリカ布の起源:植民地時代と産業革命の深い関わり

アフリカ布という言葉をよく聞くかと思いますが、その起源はご存じでしょうか?

結論

ジャワ島で生産されたロウで防染する技術を活用した布を1893年にアフリカに持ち込んだものが起源となります。

しかし、そこに至るまでのストーリーがあまりインターネットでは語られていないので、お伝えしたいと思います。

17世紀 ヨーロッパからの生地を輸入

まず、遡ること17世紀。

アルフェルト・ダッペル著「アフリカについての記述」によると、17世紀からアフリカではヨーロッパから生地の輸入が始まったことが記載されています。イントゥリカ(インディア・トゥ・アフリカ)と呼ばれて、マドラスチェックや手作業のプリント生地がアフリカに大量に運ばれていたようです。これはインドで綿布を生産し、イギリスやフランスまで運び、そこでインド更紗を生産するということを指します。

18世紀 産業革命により大量生産や移動のスピードアップ化

18世紀末になると、「飛び杼」や「ローラープリント機械」が発明されたことにより、大量生産が可能になりました。さらに蒸気船が登場したことによる移動のスピードアップが図られて大陸間貿易に拍車がかかりました。


(飛び杼 出典:wikipedia)

19世紀 宣教師による縫製の伝授とヨーロッパ生地の好評化

19世紀になるとプロテスタント宣教師による布教活動と合わせて、アフリカの女性たちに縫製を合わせて教えていきます。そこでヨーロッパ製の薄い布が大好評となり、ヨーロッパの生地とそれに伴うドレスコードが普及していきました。

ジャワ島のオランダ返還とテキスタイルの大量生産の開始

そして1816年に、ジャワ島のオランダ返還により、オランダがアジアンテイストを取り入れた新製品を開発することでシェアを獲得していきました。

1830年にハーレムコットン社がインドネシアのテキスタイル輸出の独占権を獲得。1834年にはプレヴィネール&ウィルソン社、1846年には現フリスコ社(P.F.ファン・フリシンゲン社)が大量生産を開始したのです。

フリスコ社

ジャワ島でのシェア獲得の失敗とアフリカへの持ち込み

徐々にジャワ島での地盤を固めてきたオランダは、「溶かしたロウで防染する技術」「目立つ部分や裏地には手書きのモチーフを入れる」を用いて、ジャワ島のエリート層に広がっていきますが、結局は、ジャワ産のバティック染めに負けてしまいました。

結果、各社の巨額の投資に対する対応に迫られる中、スコットランド商人エベネゼル・ブラウン・フレミングは、宣教師たちから、ジャワ島からガーナに持ち帰ったバティックが人気になっていることを聞いたことから、「需要あり」と考え、1893年に初めてオランダ工場製のバティック染めを納品したのがきっかけなのです。

まとめ

アフリカ布と聞くとアフリカで生産された伝統文化のイメージがありますが、ヨーロッパによるインド更紗などの生地の輸出、ジャワのバティック技術の模倣、オランダ企業の余剰在庫の活用、スコットランド商人によるアフリカ市場への導入などの要因が絡み合い、出来上がったものなのです。

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参照:ワックスプリント アンヌ・グロフィレー著

 

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